Carnets sauvages 1(カルネ・ソヴァージュ1 2016.9.13)



飛ぶ、立ち止まる。ぶどう酒色の海。





なぜ、こんな読めない(自動変換ができない)ペンネームにしたのか、とよく聞かれる。四方田犬彦さんはどこかで、ゴーリキの小説が好きだった父親に「剛力」と命名されたのが嫌で、名前を変えたと書いていた。わたしは、親がつけた名前は好きだけれど、(日本人の場合)女性は父親か夫の苗字で呼ばれるのが、腑に落ちなかった。フランスの日常ではファーストネームしか使わないので気にならないのだが、日本では苗字で呼ばれる。自分で何か書くときには、先天的に決められてしまったアイデンティティではない名前を使いたい、と思ったのだ。

「飛」というあて字を使ったのは、若い頃に「飛ぶ」という言葉・概念に魅せられていたからだろう。反体制派の母親のおかげでかなり自由に育ったから、閉塞感があったとは思えないのだが、そのせいもあって思春期に、まわりの世界(社会)とのギャップをより強く感じたのかもしれない。遠く異なったもの、未知に飛び込みたいという願望から、フランスに来た。
「冒険者」や「放浪者」タイプではなかったので、同じ街に住み着いて40年以上の年月が流れた。東京ほどではないが、パリも1970年代とはずいぶん変わった。というか、グローバル金融資本主義が牛耳る消費経済と価値観に、世界じゅうがとりこまれてしまったのだろう。そして、デジタル文明はいま、「人間」というものをつくってきた時間と空間の観念、他者や歴史との関係を大きく変えているようだ。ゆったりとした時間を愉しむ習慣が残っていたフランスでも、時間と空間を常に画像・映像や音で埋め尽くさなくては気がすまない人が増えた。哀しいことにパリでいま、音楽やラジオ(かなりボリュームが高い)の聞こえてこない静かなカフェを見つけるのは難しい。カフェ、メトロの駅、スーパー、郵便局などの空間で、誰も見ていないのに大型スクリーンがチカチカ映像を流している。かつてフランス人は、日本の喫茶店に音楽が流れていると抗議したものだが・・・。
サイトのタイトルを「パッセジャータ」としたのは、そうしたことに対するささやかなレジスタンスの気持ちからだ。パッセジャータとは、イタリアやスペインなど南ヨーロッパの「散歩」の習慣を表わす。住み慣れた街をそぞろ歩きしながら、友だちや知人、隣人と談笑したり、一杯やったりする。ゆったりとした時間や道草は、想像や夢想、未知なものとの出会いをもたらすきっかけになるから、人間にとってとても大切だと思うのだ。そして、このブログ「カルネ・ソヴァージュ」では、パリやフランス、あるいはそれ以外のさまざまな事柄やテーマについて、そぞろ歩きの中で目にとまり耳にし、考えたことを、手帳(カルネ)に書きとめるような感じで綴ろうと思う。
イタリアの作家レオナルド・シャーシャ(1921-1989)の短編『ぶどう酒色の海』の中に、ローマからシチリアへの定期列車が出てくる(列車ごとフェリーに乗るのだ!)。夜9時から翌日の昼までつづく長い長い旅のあいだ、コンパートメントの中で同席した人たちが繰り広げる場面の描写が、実に面白い。北部出身のエンジニアは、同席したシチリア家族の騒々しさ(恐ろしくやんちゃな子どもがいる)に初めは辟易するが、しだいに惹かれていく。同じイタリアでも、北部と南部(さらに「大陸」とシチリア)は社会・文化が全く異なる別世界だ。家族に同行する若い娘とエンジニアのあいだには恋心まで芽生えるが、同乗の旅が終わった途端、彼は「いつもの自分」に戻る。シチリアの海を「ワインみたい」と言う子どもがいる世界とは無縁の、精彩に欠けるが着実な日常に。「ぶどう酒色の海」とは、ホメロスの『オデュッセイア』に出てくる表現である。
ふだんの思考や時間と空間の枠からはみ出たとき、人は何か詩的なものに出会えるのではないだろうか。今年の夏は見知らぬ土地を訪ねる機会に恵まれなかったが、シャーシャの「ぶどう酒色の海」が詩的な歓びをもたらしてくれた。