Carnets sauvages
ふだんは「目に見えない」フランスの人々が安全ベストをまとって生活難と社会的不公平を訴える「黄色いベスト」運動は、最初の全国行動(11月17日)から7週間目に入った。軽油・ガソリン増税反対を発端に始まった人々の要求は、自発的な道路封鎖やデモをつづける中でたちまち、不公平な税制に限らず
12月1日、3週目に入った「黄色いベスト運動」のパリ(と地方の一部)のデモは、民衆の「蜂起」的な様相を帯びた。凱旋門付近での治安部隊との攻防戦や、車やバリケードが燃える映像が主に発信されたため、暴動的な印象が強まったが(後述)、全国の参加者136,000人(内務省発表、おそらくそれ以上)の大多数は平和的に行動した。特筆すべきは
圧倒的多数の与党をバックに、ネオリベラルな経済改革を強権的に急ピッチで進めるマクロン政権の「大統領君主制」を揺らがした「ベナラ事件」後、この秋、大統領の支持率は下がり続けた(10 月末21%を切る)。11月4〜11日、第一次世界大戦100周年を期に各地を訪れたマクロンには、一般市民から厳しい批判やとき
4月23日に行われたフランス大統領選第一次投票は、前代未聞の結果となった。二大政党の共和党(保守)と社会党の候補が敗退し、議員の経験が皆無で昨年4月に自分の政治運動「前進!」をつくったばかりの前経済大臣、 中道
フランスではこの春、社会運動(スト、デモ、大学封鎖)が盛り上がったが、マクロン政権はそれを無視・弾圧しつつ、国鉄改革などネオリベラルな法案や、難民・外国人規制を厳しくする法案を、次々と国会で採択していった。
日本ではほとんど報道されないが、フランスでは4月から、マクロン政権が進めようとする複数の「改革」に抗議して、大規模な社会運動が繰り広げられている。国鉄SNCFでは4月3日から、週のうち2日間の罷業を3か月続ける新しい形のストライキを継続中(6月末まで)
マクロン大統領就任以来、フランスでは政府主導で複数の「改革」が急ピッチで進められている。6月に選出された圧倒的に与党優位の議会は、政府や大統領の側近・官僚が作成・提出する法案を、次々と機械的に可決していく。「服従しないフランス(FI)」の議員フランソワ・リュファン(42歳)は、「議会は大統領の願望の登記所になった。 与党の修正案まで行政が作っている」
11月2日〜4日、パリで反核世界社会フォーラムが開催された。「世界経済フォーラム」に対抗して、2001年にブラジルのポルト・アレグレで始まった「世界社会フォーラムWSF」の反核(原子力)版、核兵器と原発のない「もうひとつの世界」の実現を民衆の立場から考える試みである。
9月から新学年が始まったフランスでは、社会運動も再び動き出した。8月末に政府が発表した労働法典を改定する5つのオルドナンス(国会から授権されて行う行政命令)は、予測どおり雇用者側に有利で、労働者や労働組合の権利を縮減する内容だったため、9月12日に労働総同盟(CGT)や「連帯」系などの組合が呼びかけたデモは、全国で40万人(主催者発表、警察は22万人強)を集める大抗議となった。
5月7日の決選投票の結果、エマニュエル・マクロンが66,1%を得票してフランスの新大統領に選ばれた。前政権で大統領府官房長官補佐と経済大臣を務めたとはいえ、前年に自分の政治運動をつくったばかりの、議員経験がない人物(それも39歳の若さ)が大統領になるとは、前代未聞
フランスでは6月の総選挙でマクロン新大統領の党「共和国前進」(LREM)が議会の過半数をとり、圧倒的な優位に立つ与党と「ジュピター(ゼウス)的」 を自称する大統領による強権的な政治が始まった。マクロンは一見、マイルドなイメージを与えるが、第五共和政の性格である大統領への権力集中をさらに進め ている。
この4月~5月に大統領選を控えるフランスでは、前代未聞の混沌とした政治状況が続いている。諷刺週刊紙カナール・アンシェネは1月25日、保守・中道の大統領候補フィヨン(前回のコラム参照)に関する汚職疑惑を報道した。
4つの選挙、民主主義とメディア
アメリカの大統領選では再び、議会制民主主義(代表民主制)について考えさせられた。ヒラリー・クリントンはトランプより250万票以上も多く得票しながら、選挙人制度のせいで敗れたのである。
去る10月1~2日、欧州加圧水型炉(EPR)を建設中のフラマンヴィル原発(フランス北西部のコタンタン半島)付近で大規模な抗議行動が催され、各地から反原発団体や環境保護団体グリンピース、緑の党、仏左翼党、反資本主義新党などが参加した。
イギリスの国民投票によるEU離脱派の勝利、フランス、ドイツ、ベルギーで起きた殺戮やテロ事件(政治的な目的がない場合、テロという言葉を使わないほうがよいと思う)
なぜ、こんな読めない(自動変換ができない)ペンネームにしたのか、とよく聞かれる。四方田犬彦さんはどこかで、ゴーリキの小説が好きだった父親に「剛力」と命名されたのが嫌で、名前を変えたと書いていた。